忘頃

 

先日の地震は久々に大きかった。


2011年の東日本大震災からもう10年以上か・・・なんて思っていた矢先だった。

一人暮らしってこともあるし、そろそろまた最低限の備蓄品を揃えておこうかな、と。

2Lのペットボトルで水1箱、トイレットペーパー1袋、マスク1箱・・・そしたらだ。


忘れた頃にやってくるってのは本当なんだな。


The Big One - "San Andreas" Brad Peyton, St: Andrew Lockington, US 2015

This is a shitty film. That's enough, Hollywood.
(クソ映画。いい加減にしろハリウッド。)
"San Andreas" Brad Peyton
Warner Bros. Pictures

「・・・文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を十分に自覚して、そして平生からそれに対する防禦(ぼうぎょ=防御)策を講じなければならないはずであるのに、それが一向に出来ていないのはどういう訳であるか。

その主なる原因は、畢竟(ひっきょう=結局)そういう天災が極めて稀にしか起らないで、丁度人間が前車の顚覆(※)を忘れた頃にそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。

しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守(ぼくしゅ=厳守)して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。

大震後、横浜から鎌倉へかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられたのであったが、今度の関西の風害(室戸台風)でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。

やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。新聞の報ずるところによると幸いに当局でもこの点に注意してこの際各種建築被害の比較的研究を徹底的に遂行することになったらしいから、今回の苦い経験がむだになるような事は万に一つもあるまいと思うが、しかしこれは決して当局者だけに任すべき問題ではなく国民全体が日常めいめいに深く留意すべきことであろうと思われる・・・」

※「前車の轍を踏む」「前轍を踏む」先人の失敗を繰り返す、という喩えから.

前の車が通った轍(てつ、わだち)を後続車も同じように通ってしまう・・・なので「前者」ではなく「前車」.


     寺田寅彦「天災と国防」(経済往来社、1934年) 青空文庫より引用